子供であるということは視野狭窄であることだ

今日、二つの大きな気付きを得た。

二つの気付きは連結していて、そのうち一つは、僕の人生にとって非常に重要で、あまりに致命的なものだった。

それが思い浮かんだ瞬間に直感した。これが僕の求めていた自分自身の解だと、これが僕のあるべき、僕の納得の行くパーソナリティなのだと。

 

二つの気付きを気付いた順番に二つの記事に分けて書きたいと思う。恐らく非常に長くなるので。

一つ目は「子供だと言われるのは、視野が狭いと思われる行動をしているから」という気付きだ。

 

そもそも僕は「もっと大人になりなさい」「いつまでも子供みたいに夢ばかり見ていないで~」という、あまりにも定型化しているこのフレーズが大嫌いだ。

何故嫌いなのかは今日まで説明ができなかった。

「頭ごなしに否定をするな、おれ自身とおれの実力を見て言え、おれの信条やおれが人に与えてきた影響を見ずに言うな」ということはなんとなく言えたのだけれど、その主張はどちらかといえば私見を多分に含んだ感情論だった。

そもそもステレオタイプすぎるこの定型文は生の声で聴いたことはほとんどない。親かって僕の夢を打ち明けたときにそんなことは言わなかった。お前が思い描いているほど夢に溢れた世界じゃないよ、一つの仕事だよ、とだけ言われたと思う。今思えばそれに関しては良い親に恵まれたと思う。

とにかく、あまりにも実生活で聞いたことがないので、「もっと大人になれ」のフレーズは僕が僕自身に突きつけている命題なのだと思う。恐らく、記憶にはないけれど過去いつかに誰かに言われたことを、自分の頭の中で勝手に反芻して悩んでいるだけなのだ。

最初に言った人からすれば知らない話だ。だけど僕はこの主張を覆したかったのだと思う。最初に与えられた言葉を自分の中で増幅し、その影と戦っていたのだと思う。

 

この戦いの末に得た結論から述べれば、タイトルの通りだ。

子供であるということは視野が狭いということ。この一言であり、この一言以上に解釈をしていいものではないと思う。

 

僕たちは飯を食べて明りのもとで風呂に入り住居で寝入る。

その日常的な行為だけでも他の幾万の労働人口を消費している。多くの人の時間と労力、血と汗と涙があって、今日という当たり前の暮らしが成り立っている。当たり前のように犠牲を払うことで当たり前は成り立っている。

 

僕に「大人になれ」と言った人の主張は、多くの人間はこの現実を見て、苦しくても日々頑張っているんだからお前もがんばれ、お前もそれを享受している一員なら当然だろ、ということだった気がする。

僕はどっちかというと体育会系で(中高+αでガチガチの古典的な運動部だった)、根性論や感情論はどちらかというと分かってしまうタイプの人間だった。

だから聞いていた最初は「みんながんばってるんだからおれもがんばらないとな」と、オールフォーワン・ワンフォーオール理論に一定の賛同をしていたのだけれど、しかし時間が経つにつれて徐々に疑問符が出てきた。「みんな頑張ってるから頑張らないといけないって本当に万物に言えることか?」

やがて僕と同じ疑問を持つ人が一定数いることをネットを始めてから知って、次第に「大人になれ」発言にムカついてきた。

この言葉を含め、あたかも当然のように謳われている根性論がもしも悪しき風習で全くの間違いなのだとしたら、"みんな頑張ってるからお前も頑張れ"理論は詭弁じゃないか。

しかもこの理論はこの言葉たちを防衛するための機能すら含めている。「でも」という疑問に「みんな頑張ってるのにお前は頑張らないのかよ」と、協調性につけこむような発言で攻撃する。

これって汚いことじゃないか?正しいか正しくないか、幸せか幸せじゃないかに関わらず自分側に惹き込もうとする、そのために根性論で無理くりやらせようとするのって。

 

長くなったが「大人になれ」の主張を僕が嫌うようになった経緯は以上の通りだ。

だけど「僕らの日常が犠牲の元で成り立っている」のは本当で、「じゃあ僕らが守りたいと思う人や街も、結局はこの方法で守っていくしかないんじゃないのか」とか、「今まで僕を支えてくれた見ず知らずの先駆者や親や恩師を裏切って、継承を裏切って良いのか」という葛藤はまだ存在した。

 

 

少し切り口を変える。彼らの言う「子供と大人の違いは何か」ということだ。

 

子供というものは属する共同体が狭い状態から始まる。

生まれた家族。幼稚園のクラスや先生。小学校ではその枠が6年生数クラスの校舎全体へと広がり、塾や習い事であらたなコミュニティに属し…

(インターネットが普及した現代では、過去に比べ若い時分から国内や世界の共同体と触れる機会も多いかもしれないけれど、それは例外として)

 

全ての動物は自分と自分を取り巻く環境を安心し安定したものにしようとする本能がある。

それを踏まえると、順当に人間が社会的な機能を有するまでに経過するプロセスは、以下のように分けられると考える。

①幼少期に自己を守るために泣き駄々を捏ねる(本能的に)

②自分を防衛しないと大前提として生きていけない事に気付く(ここから理性的に)

③自己を防衛するために周りの人間が奮闘していたことに気付く。周りの人間の好意や意図があったかは別にして。

④自己を防衛するためには自己の周囲、自分の生存・生活・精神のために必要な人間を保っていく必要があることに気付く

 

これは「大人になれ」理論を振りかざす人間が描いている、人間社会で人が生きていくために必要な心の過程だと、僕は考える。妄想では無いことを祈る。

全ての人達がこのレールを順当になぞっていくわけではない。途中で道を外れる人もいれば、大の大人でも①か②かで止まっている人もいると思う。

 

子供というものはとにかく最初本能に従って自己を防衛するために泣いて泣いて泣き叫ぶ。近くにいる母親を誘引して保護してもらえるよう、自己の不安を取り除いてもらえるようとにかく泣く。

泣き虫を糾弾するつもりは全くないし僕も泣き虫側だけれど、その中でも泣けば許されると思ってる人は少なからずこういう本能だけが理性を伴わず残っているのだと思う。

(本当に体の弱い人や知性の弱い人はこういう風にして自己を守るしかないのでどうか攻撃しないでパーソナリティとして納得したほうがいいと思う)

 

やがて子供は幼稚園・小学校という共同体を経て、親以外の存在と出会う。

いや、親のパイプラインやたまたま外で遊んでいる時に出会うかもしれない。ある意味幼稚園・小学校という共同体はこれらの出会いが必然的であるだけで、出会いのための必須要項ではない。

とにかく親の庇護のもとにあった子供は徐々に多くの人間と出会うようになっていく。そしていろんな子がいることを知る。

 

ここが「大人か子供か」にとって最も重要な部分だと考える。

「どれだけ周りが見えてるか」だ。「どれだけ他の人間の様子にアンテナを張れるか」だ。

 

話しやすい子。話しにくい子。好きな子。嫌いな子。

みんなの中心となる子。中心人物を崇拝する取り巻きとなる子。それに排斥される窓際の子。

本能のまま泣きじゃくる子。逆に泣けば誰かが助けてくれることに付け入って泣く子。痛みを黙って溜め込む子。そもそも痛みを人より感じない子。

 

話しやすい先生。話しにくい先生。好きな先生。嫌いな先生。

みんなに慕われる先生。偉い先生におべっかばかり使っている先生。あまりいい噂を聞かない先生。

感情的な先生。感情的に立ち回ることで相手を強制的に黙らせる先生。

逆に怒りを抑えて、対象の子のことを考えているように見える先生。対象の子のことを考えているのよ、と主張しているが本当はそう言う自分に酔っているだけで相手の反応を見ていない先生。

 

気付く時期は人それぞれだから遅すぎるということはない。

ただ「学校」という共同体がなぜ存在するのか、社会全体へ貢献する人材を作るという意味で合理的な解釈をつけるなら、「こういう心の過程を経て、学校という組織内で大人になっていく」のが、社会全体から想定されたケースなのだろうな、というだけの話だ。

 

抽象的に「好き」と「嫌い」であること。

自分が感じる好みが一体何に起因しているのかということ。

好きな対象は自分にとって都合の良いだけの人ではないのかということ。

好きな対象は誰もにとってのヒーローではないこと。

 

こうして「好き嫌い」の抽象概念から「なぜ好きなのか」という具体例を挙げ、その具体例の数だけいろんな人間がいることを知ること。

ここが「大人であるか子供であるか」の最大の違いだと思う。

要は「周りが見えているか見えていないか」だ。

 

そして、この気付きを周りの人に見える形にしているかは別として、①「見えているから大人にふるまう人」、②「見えているけど大人にはならない人」、③「見えていないけど大人っぽく見える人」、④「見えてないし大人じゃない人」がいる。

 

③はただの天然だ。きっかけを与えれば「ああ、そういうことだったんだな」と気付くと思う。本能的に気付いてはいるけど理性的に気付いていない。でも社会ではありがたがられると思う。

 

「大人になれ」理論者にとっても反対者にとっても、いやそこは大人になれよ、と言いたくなるのは④だ。

電車で匂いのきつい食べ物を音を立てながら食べる人、病院の精密な診察室前で大声で電話をする人、目の前で店員が必死で駆け回っているのにわざわざクレームを立てる人。

僕は今まで遭遇したこういうTPOを本当の意味で守れない人に対して「今じゃないだろ」と何度唱えたか知れない。

別に今その密閉空間じゃなくて駅構内で食べるとかない?ちょっと外に出てしゃべるとかない?そのクレームってお客様のありがたいお言葉でも店に将来役立つ貴重な意見でもなく、今待たせている多くの別の客や必死で頑張ろうとしている店員の足をとっつかまえてわざとこかせているだけじゃないの?

 

④の人は本当の意味で周りが見えていない。

自分以外にどんな人間がいて、その人が自分の生活あるいは他者の生活のためにどれだけ奔走しているか、逆にそうでない暇な人がいるか、奔走したいのに希望を見出せなくて蹲っている人がいるのか、とにかくその全てが見えていない。

見てくれ。頼む。真剣に生きている人の足を挫くのはもうやめてくれ。お前の不幸なおつむの呪う以外に矛先のない、この無情な解決策をどうかお前の気付きで終わらせてくれ。

 

ただ、一見④に見える人の中にも実は②だ、という人がいる。

本当に急いでいて、手持ちも匂いのきつい食べ物しかなくて申し訳ないと思いながら電車の中で食べる人。

本当に重要な用事で、今大声で引き留めないといけない人がいるとかで場所を選んでられない人。

明らかに店が上手く回ってないので、こうしたらいいんじゃないかとつい言ってしまう人(まぁこれはちょっとアレな人だけど…)。

 

TPOを守るなら、多くの人の都合を考えるなら良くないだろうな、と考えているけれど、自分や自分の周りの環境を守るためにどうしても必要だと思って決断する人。

いろんな意見があると思うけれど、僕はこういう人に強く惹かれるしそうなりたいと思っている。

まぁ時々、分かっていたけど自分の怒りが収まらないのでやった、という人はいるけれど…これは本人や周りの環境にとって本当に有益か考えてやってほしい。でもそれであなたの気が晴れるなら仕方がないと思う。

人殺しになるかならないかの境界はこのあたりにあると考えているのだけれど、それはまた別の機会に。

 

なぜ②の人が必要か。

それは①の人の中に二パターンの人間がいることと関係している。

 

①-1は「社会がこうやって回っているんだからお前もそうしろ」という人だ。

最近twitterとかで批判されるブラック企業とか日本的な体質とか団塊世代とかはほとんどこれに当てはまるのだと思う。

近年よく攻撃される側で、僕に「大人になれ」と言ったのも確かこういう人だ。

 

①-2は「①-1の存在に逆らえない人」だ。

自分のやりたいことがあるけれど、①-1の主張を守らないと自分の生活圏が破壊されると思っている。だから自分のやりたいことができない。

さきほどの例でtwitterで批判する側の人達の多くがこういう人達だと思う。

①-1の人のせいで自分のやりたいことができない、何かと窮屈に感じている、下手すると社会全体を呪ったり自分の幸福を大きく損なっている人。そして今そういう人は少なくない。そうじゃないとあんなにRT稼げないでしょ。

 

まとめると、

①周りが見えていて、自分も周りの通りに行動しようとしている人(大人でいて、大人であるように見える人)

②周りが見えていて、でもすべての行動において周りに貢献しようとはしない人(大人でいて、大人でないように見える人)

③周りが見えてなくて、でも周りの通りに行動しようとする人(大人でなくて、大人であるようにみえる人)

④周りが見えてないし、意図せずとも本当に周りに迷惑をかけている人(大人でなくて、大人でないようにみえる人)

そして、

①-1 自分と同じように周りの人間も大人であるべきだ、と主張する人

①-2 周りの人間も大人であるべきだ、と言う人に逆らえない人

 

ここまでで僕が観測した事実だけは十分まとめられたと思う。

「子供であるということは、周りが見えていない、視野狭窄であるということ」

「大人であるということは、周りが見えている、視野が広いということ」

「周りを見て行動する人にも、周りのためになることと一見ならないことをする人がいるということ」

「本当に周りをみていない人もいて、そういう人は周りを見たほうがいいということ」

 

 

ここまでの事実を含めても、僕は「(自分や社会は大人であるから、お前も)大人になれ」という主張には首をかしげる

 

いやまぁ別に、そういう人と和解する道は存在するから、別にそこだけでその主張者全てを否定する気はないけど。

そういう人にも探してみればいいところがいっぱいあったりする。僕はそれに気付くことで「自分のほうが大人じゃん。視野広いじゃん。うぇへへ」と一人悦に浸ったり…はしないけど、そう思われても仕方のない解釈で、「大人になれ」理論者と一定の距離を保っていると思う。

あくまでその意見が死ぬほど気に入らないだけで、もしかするとその背景にはその人の生活やその人が必死に守りたいものがあるかもしれないので、急にそういう人にマウントを取って全否定するのはヤバいと思っている。そういう人は④の人と同じだ。嫌いなものを嫌いでありたいだけで周りのものが見えていないヤバい奴だ。

そういう奴には僕はその理論者と一緒に「お前はもっと大人になれ」と言うと思う。そう言うときだけは友達だ。やったね。

 

上の行間を補完して「大人になれ理論者には首をかしげる」をちょっと訂正すると、

「大人になれ理論者でも④の人に対してならいいと思う」

「けど①-2とか②に対して言うのはちょっとお門違いじゃないか」と思う。

簡潔に言うなら、それってお前の都合で他者を取り込もうとしてるだけじゃん。と思っている。

 

①-1理論者、「みんな大人だからお前も大人になれ」理論者は、その性質上他者を取り込まないと自身の構築する環境が成り立たない。

彼らが無事平穏に生活するためには、彼らが自分自身の生活圏を保つには、彼らの周りにいる人間を「大人な行動者」にするしかないのだ。「子供な行動者」を排斥するしかない。

自分達が生活するために必要な交通網・インフラ・食事・娯楽…そしてそれを遂行する人間が「みんなが頑張ってるから頑張ってます!」という主張者じゃないと気が済まないのだ。

そういうモチベーション行動できる人も、まぁもしかしたら、万が一、よしんば、いるのかもしれないけれど、それを全部の人間に押し付けるのははっきり言ってヤバいと思う。

「みんな頑張ってるのに頑張ってない」人間は一人残らず殲滅しないと彼らの掲げる哲学は実現しない。

そしてそういう人間のほとんどは一般企業の社員だ。

「お前が生きてきたのは親が無私でお前に奉仕してくれたおかげだ。お前の知らない人達が汗水たらしてインフラを整えていたおかげだ」

「だからお前もそのサイクルを回していかないといけないんだ」

 

一つ目の主張は残念ながら事実だ。そのことには僕は感謝しているし、サイクルを今日も変わらず回している人は本当に尊敬するべき対象だ。

僕の恩人に自営業で中古業者をやっている人がいるが、来る日も来る日も会社に勤めている僕の母親をひどく尊敬していた。

好きなことを追求するのもいいことだ。でも社会を回すために貢献している人も凄く偉い人だ。俺にはできない。

僕は最初、何言ってるんだこいつ、自分の好きなことを追求するのの何が悪いんだよ、と行間の読めないヤバい奴な考えを抱いていたが、今は分かっているつもりだ。

サイクルを回す人のおかげで今日の生活を享受している。自分の労働を他人の労働に変換することで今日の平穏を得ている。どうあがいたって事実だ。

子供はどれだけ親が嫌いでも、その親の子であることからどうやっても抜け出せない。カエルの子はカエル。たとえ反面教師だとしてもその親の影響あって自分が形成されていることは事実だ。それと全く同じことで、社会に属して今日まで生きてきた事実だけは変わらない。

親も社会も憎めば憎むほど、皮肉な状況になっていくのは事実だ。受け入れる他ない不条理だ。

 

ちょっと話が逸れたけれど、つまり、

「今までお前は社会の労働力のおかげで生活してこれたんだろ、それを認めないとは言わなせない」

わかる。

「だからお前もその輪に入れ。参画しろ。次の世代と今の世代を守るために貢献しろ」

わか…いや、ちょっと待ってくれ。それは違うだろ。

それは「お前の意見じゃない」んじゃないか?

 

私見で各主張者の結論を述べる。

①-1理論者は狂信者だ。

①-2理論者は狂信者のコミュニティに属するしかないと思いこんでいる人達だ。

②理論者は自己のために生きる者だ。①-1に対して疑問符を持ち、①-2はこの②になることもある。

③は良い奴だけどたぶん馬鹿だ。たまたま上手く生きていく方法を引き当てられたが、なぜそれでちやほやされるのかは分かってない。これから①や②や④になれる。

④は本当に馬鹿だ。馬鹿だからと言って見下していいわけでも罵声を浴びせてもいいわけでもないが、本当の意味で天災を引き起こす可能性があるので早く自覚してほしい。

 

ここで①-3理論者の存在を設けさせてほしい。

「周りが見えているし、周りのために貢献しているが、万人がそうであってほしいとは言わない人」

①の共通点は、「周りが見えているし周りのために行動している」ことだ。

①-1は「周りもそうしろ」で、①-2は「②になりたいけど…」で、①-3は「みんながみんなそうするべきではない」だ。

 

ここでまた、②-1と②-2理論者の存在を設けさせてほしい。

「周りが見えているけど、周りのために必ずしも行動しない」ことは共通だ。

②-1は「なんで人類全員が自分のために生きないの?」と思っている。

②-2は「僕にとってこの方法が一番幸せだけど、みんなにとってそうじゃないよな」と思っている。

 

ぶっちゃけ①-3と②-2が全部なら、世界平和にはならないだろうけど、もうちょっとマシな世の中になると思う。

そしてこれが僕が思う「本当に大人である」ということだと思う。

 

かなり話を戻すけれど、子供は本能的に自己を防衛し、成長につれ周囲の存在に気付き、やがて周囲なしには自身が成り立たないことに気付く。

この途中で脱落したら③や④になり、最後まで到達することもあれば一生到達しないこともある。

そこからまた分岐があるのだ。

自分の共同体のために、周りの人間も自分の考えに染めるしかない、と偏執する①-1、②-1の人。

そういう人達に怯えて、「思考」や「自身」とは何か見失って、絶望してしまった①-2の人。

自身の幸福のための共同体を守り、他の共同体には手を出さない①-3、②-2の人。

世の言う「大人」だけでも、これだけの種類が存在する。

 

①-1を僕が憎む理由は、①-2を生み出してしまうことにある。

①-1に染まって①-1になれたならそれはその人にピッタリな生き方なのだろうけれど、①-1の人は②を描いている人に対しても分別なく「大人になれ」「こっち側に来い」と言うのだ。

それは②になったかもしれない①-2のの人が生み出していたかも知れない未来の可能性を踏み潰す行為だ。

それはその人の人生そのものを奪う行為だ。

 

「主張に流される奴がいけない」のかもしれないけれど、なら尚更、どっちにしようか迷っているなら尚更、強引に吸収するのは本当に人道に反している最低な行為だ。

そういう商売が沢山存在する、他人の悩みや弱みに付け込んで自分の側に惹き込むことが善とされることが蔓延しているのは事実だけれど、僕はそれにだけは本当にNOと言いたい。それだけは絶対にダメだと言いたい。

それは①-1理論者にとってもいい結果を生まないのだ。共同体に完全な非賛同者を無理矢理惹き込むことで生まれるのは、本人の破滅か、その本人の謀反による組織の破滅だ。

そうなると①の共同体にとっても②の共同体にとっても、誰も、誰一人も得をしない結果にしかならないのだ。

 

 

「自分はこれが幸せだし、世間で言うやりがいっていうやつを感じている。けれどそれを全員がやる必要なんてない。みんなが色々考えて悩んで、その末で納得できたことをやるべきだ」

僕はこういう人の考えを最も推している。

 

やりたいこと≠仕事になること であることは往々にして存在する。

だから「やりたいことをやるべきだ」という主張はちょっと現実を欠いている。②になりたかったのに①になるしかなかった人という枠は存在する。だから「やりたいことをやるべき」理論者という②-1グループがいる。

悲しいことだけど、やりたい夢が生きていくためのものにならないことはある。

僕はまだそれを受け入れられていない方だけれど、そういう現実を認めて②-2になれるなら素晴らしいことだと思う。

 

①の人は世の中に必要だ。この社会を回していくために、変わりない生活を享受するために必要だ。それはそれで本当に偉い。彼らの存在なくして僕は生きていない。

だけど僕は②の人になりたい。「みんな頑張ってるから頑張れ」はおかしい。①の人を尊敬すると同時に、それは①の人が好きでやっているはずのことなのだから、それを享受する側もそっちの思想に合わせる必要はないし、それに②の人が誰にも貢献できないなんてことはない。

誰かに貢献しているから仕事になるのだ。①でも②でもそれは変わらない。どちらが正解でもどちらが逃げでもない。それは本人が納得した答えならどちらでも最善となるだけだ。そこに他者の思想や過去の繋がりが土足で干渉していい理由はない。

だから①-1の狂信者は、自分のコミュニティに籠って同じ思想の人と仲良くしていてほしい。頼むから自分達が人類のために最も尊重されるべき存在だとは誤解しないで、自分達のやり方を②の人に押し付けるのをやめてほしい。芽を摘まないでほしい。①-3であってほしい。

 

 

今回は以上です。煩雑で推敲もしていません。同じ主張が何回も被って、本筋の見えない脱線が何度もあります。読みにくくてすみません。もっと文章構成力があればいいのにな。

一つの記事で語るにはこれでもかというほど詰め込みすぎているので、他のブログみたいに「一つのテーマにつきいくつもの記事がリンクしている」形態をとるのもいいかもしれませんね。アクセス数稼ぎかよって思われるかも知れないけどアレめっちゃわかりやすい。そもそもこんなオープンでないブログに対してアクセス稼ぎとか言うなよ。

 

冒頭の通りこの話は全二部構成の前編です。

後編はさらに話が逸れて「ぼくのかんがえたぼくのための記事」色がかなり強くなります。

そしてここまでで二時間半執筆にかかってるのでいつ完成するかわかりません。

でも本当に自分にとって必要な気付きだった…と思っているので、今後の人生にとって間違いなくターニングポイントとなる、自分の個性にかかわる最大の気付きだったと思うので、自分のためにも他を顧みずまとめたいと思います。

 

次回は「それでも大人になれという人をぶん殴るために生きてきた」という旨の記事の予定です。