純粋な"好き"と、ステータスというか意地というか、プライドとしての"好き"

とある事情により料理を始めることになった。

 

僕は日頃料理をしない。全くしない。カップ麺か親の脛だ。

ケチなので外食も買い食いもほとんどしないが、節約のために料理をとか考えたことはない。

つまり料理において全くの素人だけれど、幸いにも知り合いに農家がいて、脳死状態で調理してもおいしいという魔法の野菜が、それなりの数で供給される。

食材の暴力でそれなりにおいしい料理ができる。上手い調理よりも上手い食材だ。僕のスキルはあまり介在しない。気楽にやってる。割と楽しんでる。

 

 

僕は音楽と絵がめちゃくちゃ好きで、自分では人並み以上に音楽を聴いて研究しているつもりだし、絵はあまり自信はないけどずっと続けてきたことだしいつか絶対に…とまぁ、のっぴきならない意気込みがある。

 

対して、最近数日始めたばかりの料理とか、半期だけ受講する科目とか、たまに人と集まってやるバスケとかバドミントンとか、そういうことに関しては特に意気込みはない。勝ち負けでも競争でもなく、ただ楽しんでやる方法を探すだけのことだ。

本気でやってる人に勝てないことがわかってるから、適当に気楽にやって楽しめばいいと思っている。必要に駆られているのならば楽しんでやる方が得なので、人と比較することはそのために必要なことじゃない。

 

本気でやろうとしていることは負けたくない。ちょっとへらへらしてるだけの奴には負けたくないと思う。肩と肘は常に張っている。"できない"ことで苦しむことも多々ある。

逆に、自分がちょっとへらへらしながら、特に時間を割くでもなく時々やる料理とかは、自分が設定するハードルが低くてとりあえず楽しい。手軽に挑戦と"できた"を体験できる。

 

僕は気付いてしまった。精神衛生上後者の方が絶対に良い。

上手い人を妬みながら、上手くできない自分を呪いながら、自分で自分の立ち位置を狭めて苦しむ道はとても長く険しい。

上手い人とは別の世界で、とりあえず美味しければいい、形になればいい、の低いハードルで挑戦と達成感とそれなりの評価をもらえる「適当な趣味」は、毎日手軽にできる"できる体験"は、心の平静を保つためにめちゃくちゃ有益だ。

幸せに生きたいなら後者を選べと思う。

 

もちろん、その人にとって「手札をチマチマ増やすより、やりたいことを徹底してやりたい」「将来なりたい自分の像になってないと後悔して自死する」ならば前者を選ぶのもその人の道だと思う。モデルは僕である。

つまり僕は、音楽や絵をやりたい僕は、「創作技術に極振りしよう」「Slipknotの故人の教え"友達がいなくなるまで練習しろ"を遵守したい」「他の生活技術より対人関係より、自分のやりたいことで居場所を見つける方が素敵だ」

なんてことを考えている。常日頃考えている。

 

ただ、ただ…本当に情けない話なんだけれど、

本当に残念なのは、正直に話すと、これらの意気込みは、ほとんど「口だけ」の状態になっている。

「なりたい」だけが一人歩きして、首を絞め続ける日々がどれだけ続いたか知れない。

 

周りの人間に締め切りを表明して、ここまでやるぜ!ここまで計画してるぜ!ということを宣言してやろうとする。

今、その宣言をぶっちぎっている。

とにかく僕は約束を守るのが苦手で、いやそれはこの話の本質じゃないのだけれど、とにかく約束とか締め切りとかを条件にしても、僕は僕が好きなはずの創作活動を継続するのが難しい。

軽く自己嫌悪になる。いや軽いものじゃない。人とかかわらないようにしてモチベーションを保とうとか、他のやるべきことが自分のやる気を削いでいるんだとか言って完全放置したりとか、もうやることが反抗期の不良だ。駄々をこねる子供だ。

 

そんなこんなでずっと悩んでいる。「好きってなんだ」ということを。

「好きなことならずっと続けられる」というのは本当によく聞く言葉で、僕がめちゃくちゃ尊敬してる作曲者の方も同じことを言っている。

そしてその人の作業工程を時折覗いていると、しかめっ面で悩んでいる場面もあるけれど、そこから抜け出そうとする過程が本当に楽しそうである。

好きなことに関してなら困難ですら笑って乗り越えられる。これが本当にその物事が好きだということだ。

 

僕の「好き」って、この純粋な動機としての「好き」ではないんじゃないだろうか。

そう不安に思うことがあった。

好きなことなら続けられるというなら、続けられないのならそれは好きではないのでは?

いやいや、僕は確かに音楽をずっと聞いているし、バンドの情報とか音源やVSTのことは日々情報収集してるし、これが好きじゃないというなら何なんだよ。

そう考えて、自分への不信を言い包めてきた。

 

 

とある事情により料理を始めることになった。

食べてくれる人はいる。評価してくれる人がいる。そこは恵まれていると思う。

その人に言われた。

「料理してるときすごい楽しそうだよね、向いてるんじゃない」

 

 

その言葉は僕に今なおぶっ刺さっている。

それは、「料理に向いてるといわれて夢見心地の上機嫌」ではなく、「才能という言葉を全否定したい人間なので、そんなことを言われて当惑している」というひねた理由でもない。

 

単純に、「音楽でそれを言われたかった」と思った。

 

その人は僕が音楽をしているところを結構日々見ているけれど、それに関して褒めてくれたことは確か一度もない。

そして「楽しそうだね」という言葉も言われたことはない。それがすごく引っかかっている。

僕は音楽をしている時、客観的に見ても楽しそうでないのだろうか?

とにかくそれがとても不安になってしまったのだ。

 

 

僕の"音楽が好き"は、きっと今、尊敬するあの作曲家のような、壁に当たってもわくわくしながら乗り越えていけるような「純粋な音楽好きのメンタル」じゃないのだと思う。

僕の"音楽が好き"は、周りに言ってしまった言葉を、昔の自分が叶えたかった夢を実現するためにやる、ただ僕という人間を強化するために行う「プライドとしての、自己主張としての手段」でしかないのか。

 

肩の荷が降りなくたっていいけれど、苦しんでもがいて最後に笑えたらそれがいいと思っているけれど、

笑って楽しんでやってるバンドが羨ましいとかは思わないけれど、恩師に恵まれた友達に恵まれた発言は認めないけれど、

僕の"好き"の正体はただの意固地なアイデンティティでしかないのだろうか?