「大人になれ」をぶちのめすために、大人になるんだ
この記事は「子供であるということは視野狭窄であるということだ」の記事の後編となります。
かなり「僕の話」になっています。
自分の信じる哲学のために他者の考えを捻じ曲げることを厭わない人。
それもその対象の信じる理想については向き合っていない人。
そういう人がいることを前回の記事では述べました。
そしてそういう人に対して僕がめちゃくちゃムカついていることも。
でもそこで僕が「そういう人間一人残らず消え去ればいい」と考えるなら全く持って同じ穴の狢。
なのでそういう人間もいるんだなーと高みの見物をしているような振りをして悦に浸っていました。
でもそれだけじゃ、そうやって受け流そうとしているだけじゃどうしても受け流し切れなくて、自分が気に入らなくて自分の心をブスブス刺して殺してやると思ってしまうことが結構多々あります。
例えば「厳しい指導もいるという場合」の記事で述べたバイト先の先輩は、典型的な「なんでこういう風に考えないの」という人でした。
流石に前の記事で述べたような自分の考えに染めようとまでする人ではなかったけれど、自分が頑張ってるんだからお前も頑張れよ、という思想で僕を攻撃する機会があったのは間違いないです。
でも仕事が死ぬほどできた。僕とは違って。だからみんなその人をありがたがったし、影で言われることはあったものの本当に必要不可欠なのは先輩だった。
対して「あの人の考えは個を殺す主張で云々」と、仕事もできない雑魚の僕は、「まぁ頑張れ」と白いような温かいような目を向けられながら店長に慰められていたような…
思想なんて行動が伴わなければ無と同じ。
行動で成果を出せるならそれが大勢にとって善となる思想に様変わりする。
人間の行動は思想→行動だけれど、第三者は行動から思想を得る。
結果と過程には因果関係はあるけれど、その過程でどれだけ他のものを犠牲にしているかには目を瞑って。
他の方法があるんじゃないかと考えるのは、いつだってその中で犠牲にされた人達。
その後の僕は「先輩より仕事ができる奴になる」のが第一の目標だった。それは実現した。白い目を向けられるでもなく、何かと重宝される人材にはなれた。
多くの人の賛同を得られるかはわからないけれど、自分の主張が認められないから泣き寝入りして膝をつきたくはなかった。
前編の記事のことを考えている時に、ふとこのことを思い出していた。
大人になれっていう自称大人は間違いなく存在して、じゃあその攻撃を防衛するために僕たちには何ができるんだろうなと。
僕は過去、先輩に対して「実力を実力で上回る」ことで手だしができないようにした。大人気ないかもしれないし討論もないのかと思われるかもしれないけれど、そもそもここまで頑張らないと討論にすらならないと思った。
同じ土俵に立つために周りの評価から固めた。
先輩に「こいつなんだかんだ仕事できるよな…」と思われるまでは話にならないと思った。
やっているうちに先輩から罵声は届かなくなったし、なぜか僕が文句を言う前に先輩はめちゃくちゃ丸くなって、「ちょっと悪いことしたと思ってる」とまで言われた。
これでいいのかと思いつつも、頑張った結果得られたことだったので僕は納得していた。
正直こうやって語るくらいには納得していた。
自分の出い好きな音楽や絵の創作について納得できて語れるほどエピソードは現時点でないのに、先輩とのことだけは、自分の成果として、自分の手がらとして、
いうなれば「自分に合ったやり方」のような、吸いつくような方法と納得の仕方だった。
ここまで気付いて、これまで僕が考えていたモヤモヤが一気に晴れた。
本当に天恵が宿ったと思った。閃くとか稲妻走るとかはこのことかと思った。
今まで「モチベーションがない」「本当に好きなことのはずなのに頑張れない」「大人の主張に納得できない」
そう思っていたことの全てがつながった。僕が僕自身に抱いていた「なぜ」が、ほとんどすべてと言っていいほど解けた。
「めちゃくちゃ強いけど、なんか不条理なことを言ってくるやつ」
「めっちゃ評判いいけど、影では僕や僕の大事にしているものを散々傷つけてくるやつ」
「態勢の正義を語りながら知らん顔で多くの物を殺していくやつ」
それが僕は本当に気に入らなかったんだ。
社会のためと言いながら思想を殺していく労働のシステム。
俺のほうが勉強できるからと僕のことをボコボコに数人で批判してくる奴ら。
お前の絵なんて下手糞だと何も見もせずに声の大きさだけを武器に流布している奴。
自分は攻撃されているという振りをしながら対象をボコボコにして数で殺す奴。
数で自分達を正義と着飾って一人に暴言罵声を浴びせる奴ら。
全員ひっくるめて死ぬほど嫌いだ。お前はお前自身と周りをもっと見ろ。お前の生き方だけが全てじゃないしお前のような幸せな生き方に必ずしも全員が至れるわけじゃないんだよ。
何度、何度、何度そう唱えてきたか、呪ってきたか、数知れない。
先輩に対してそういう憎しみを抱いたこともないとは言えない。僕が頑張りだした頃は帰り道に呪詛を唱えながら本気で泣いていた気がする。何故か学校の帰り道で思い出して泣いていたこともあったと思う。
それくらい常に考えていた。侵食するくらいに。許せない不条理だった。
そして僕が憎む不条理はいつだって強い。人情がなくとも、悪い意味で人間らしい、利己的な、暴力的な力だった。
ここで、過去の自分への懺悔と戒めも込めて、一つ告白をしておきたい。
先ほどの呪詛でいじめに関連するような言葉が出てきたけれど、それにかかわることだ。
僕は大多数に攻撃されて死ぬほど泣いたこととか、滅茶苦茶悔しい思いをしたことは多々あったけれど、いじめられたことはない。
少数派のグループに属し、多数派には一緒に話せる部分だけ共有しながら、割といいとこどりの位置でどこにでも行ける身だった。
いじめたことはある。小学校の時だ。
彼の持つ先天的な弱みに付け込んで、大多数が非難するからと言って僕もそれに加勢した。
彼とは他の一人と僕とで3人グループでよく遊んでいた。家にもよく行った。
にもかかわらず、大多数が彼の障害に気付いた時、僕もそれに加勢した。
何故かははっきりと思い出せないが、そうしないと攻撃されると本能的に思ったのかもしれない。とにかく僕は彼に対して何の恨みもないのにそうしてしまった。
3人グループの一人は彼が虐められている時も彼の見方だったのに。そいつは僕に、なぜ彼を傷つけるのかと言っていたのに僕はそれに攻撃的に反抗してしまった。
結果、いじめの波が引いた後僕はとんでもない後悔に襲われた。障害を持つ彼とはその後一度も関われなかった。
中学では別の学校となったが、高校受験でたまたま受験校が被り、久々に見た彼を僕は直視できなかった。
その時にいじめの波を引かせるために貢献した別の子と一緒に受験に来ていて、仲良くやっていそうに見えた。
彼らに殺されても文句は言えないよな、と思った。
正直、彼らに殺されずにいるから今日まで生きているとまで思っている。書いていて怖い。過去の自分とその攻撃を受けた彼が本当に怖くて、申し訳なくて、もし彼が死んでいたら僕は今日まで生きていないだろうな、と思う。
許されるとは思ってないけれど、仲を取り戻せるかは彼が認めないなら不可能だけれど、せめて彼がもし挫けることがふたたびあるならば、今度はちゃんとしないといけないと思う。ごめんなさい。本当に、本当にごめん。どうか元気で生きてくれ。
話を戻します。
僕は大多数に少数が攻撃されている光景をみると、壁か机かを殴りかねないほどブチ切れることがある。
比喩ではない。
数人グループ旅行の際、マナーを少し弁えない行動をしただけの友達が、目撃した最初の一人を皮切りに、見てもない他の数人から畳みかけるように口々と、アドバイスというより感想を述べられていた。
これだから最近の若者はとか、ゲームばっかりしてるからとか、本筋と関係なさ過ぎるし誰のためにもならない主張が多分に含まれていたと思う。
僕はすっかり気分が悪くなって、外食の席で椅子を蹴ってトイレに行ってしまった。その後何事もないように戻って何事もなかったのだけれど。
すぐ手が出るとかめちゃくちゃちっちゃい人間だな自分。別に攻撃された子のためにもならないのに。
話題をそれ以上聞きたくないからと、利己的な理由で手が出てしまった。
その怒り癖は、僕が友達をいじめていたことに起因しているのだと思う。
大多数に呑まれた自分が大嫌いだったし、彼が溺れる寸前だった大多数も大嫌いだった。
考えのない主張がどれだけ恐ろしいか。
対象のことをまったく考えない主張がどれだけ恐怖と不快感と治らない傷を与えるものか。
考えるだけで自分の過失を思い出してしまうので、つい手が出るのだった。
やめろと言いたい。自分に。手を出さない解決法を選ばないと取り返しが付かないことになる。それは後悔している自分がかわいいだけだと。
でも思えば、僕が何かしら行動して結果を残した時は、必ずと言っていいほど打ちのめしたい相手がいた。
高校受験ではお前の実力では無理だと第一志望を除外されたので、もう内心怒り心頭で合格ラインをぶっちぎって合格した。
入学してから勉強できることを理由にイキる奴らが気に入らなくて、勉強で殴ってやると彼らより上の成績を取った。
仕事のできるバイトの先輩に主張と周りの評価とで殺されかけていたので仕事ができるようになった。
お前ら全員気に入らねえよぶっ殺してやる、もちろん言葉でも殺人でもなくお前らの得意分野でな、とか、
どうしても、「自分がある程度やってること」かつ「相手が自分より強い」、さらに「相手が自分を納得いかない理由で攻撃する」ときに、僕の実力は発揮された。
ここまで至って、ああ、なるほどな、と思った。
以前はぶちのめしたい相手に真っ向から挑んだけれど、今は「あと数年で別れられるしいいか」とか、「避けようと思えば避けられるし」と勝負を避けていたな、と思った。
別に厄介事を好んで起こしに行くのは良いことだとは思わないし、相手にとってもクソ迷惑なやつだけれど、
影でチマチマ努力を重ねて、外野に「あれ、アイツのほうが仕事できるんじゃね?」と思わせて外堀りを固めるのが僕の方針なので、別に真っ向勝負ではない。
気付いたら相手の城を囲んでいて、相手は僕と仲良くなろうとするとか、それが無理なら外堀から負けを認めさせるか(流石に攻撃はしないけど)、それが僕のやり方だ。
別に迷惑なんてかからない。相手にとったら、気づいたら同じ土俵に丸腰の別人が立ってて、仲良くなりたそうにしているだけだ。
僕は音楽が好きだけれど、どうしても納得のいかない相手がいる。
数年前、僕よりギターの上手い年下にすごい迷惑をかけて、軽音楽部の活動に支障をきたすのでライブ活動を出禁にされた。
正直僕は不注意で悪いことをしたしその時の言い訳も凄まじく悪かった。僕は彼が部長となった後に部に入った部外者なので、悪印象を抱かれて当然だった。本当に悪かった。
ただ彼は周りからの評判があまり良くない。高圧的だとか、人の話を聞かないとか、自分の主張を押し通すとか言われている。
バイトの先輩とは逆である。ギターはめちゃくちゃ上手いし部の運営もしているが周りの評価は悪い。だけど僕が迷惑をかけているのは共通だ。
僕は彼に申し訳ないと思う気持ちと、ギターで勝ちたいという気持ちと、できれば同じ土俵に立って仲良く音楽の話でもしたいよなぁという気持ちとが競り合って、
結局彼に勝つというビジョンがよく思い浮かばなくて現在に至っている。何も解決せず今日を迎えている。
この後あたりだ。僕がモチベーションで悩みだしたのは。
彼の問題が解決しないから、僕は必然的に彼を避けた。避けることを覚えてしまった。向き合って真正面から物理で殴ることを忘れてしまった。
だから今では、この記事の考えにまで至った今では、この不条理に対する憎しみも捨てたものじゃないよな、と思えるのだ。
やっと僕は思い出した。
年下の後輩から逃げていて忘れたことを、僕を僕たらしめる、僕が僕の存在を認められる最大の動機と、それによって勝ち取ってきた過去を。
僕は不条理や納得がいかないことに対して、そいつの得意分野でマウントを取るのが好きなのだ。
そうすることで同じ目線で話ができると思うし、そうしないと僕の考えと相手の考えを示し合わせる機会は永遠に作れないと思っている。
第三者の仲介とか、状況によって和解とかもあるけれど、それは相手の本質にまで踏み入った話じゃない。僕は本当に身勝手なので、納得の行かない相手には思想にまで土足で踏み入りたいと思うのだ。
それを荒らしたいとは思わないけれど、僕の考えもちょっとは聞いてくれよ、君の考えも好きなだけ聞くからさ、そうじゃないと腹の虫が収まらない、そんなことを考えている不法侵入テロリストだ。僕は。
絵や音楽でモチベーションが保てなかったのは、憎むべき相手がいなかったからだと思う。
正直どの絵を見てもすげーな手が掛かってるな、美しいな、人間性が伝わってきて本当に良いな、とか、肯定的な意見しか出ないし、音楽も完全にそうだ。苦手なジャンルに対してさえそう思う。これ作れるのはすげーよって。
僕は不条理を思い出したい。粗さがしではなく、いつしか年をとって忘れてしまった、埋没した僕の主張を洗い流さず回収したい。
それがきっと、僕のモチベーションを、僕のアイデンティティを、僕の生き様を取り戻すための方法だ。