「大人になれ」をぶちのめすために、大人になるんだ
この記事は「子供であるということは視野狭窄であるということだ」の記事の後編となります。
かなり「僕の話」になっています。
自分の信じる哲学のために他者の考えを捻じ曲げることを厭わない人。
それもその対象の信じる理想については向き合っていない人。
そういう人がいることを前回の記事では述べました。
そしてそういう人に対して僕がめちゃくちゃムカついていることも。
でもそこで僕が「そういう人間一人残らず消え去ればいい」と考えるなら全く持って同じ穴の狢。
なのでそういう人間もいるんだなーと高みの見物をしているような振りをして悦に浸っていました。
でもそれだけじゃ、そうやって受け流そうとしているだけじゃどうしても受け流し切れなくて、自分が気に入らなくて自分の心をブスブス刺して殺してやると思ってしまうことが結構多々あります。
例えば「厳しい指導もいるという場合」の記事で述べたバイト先の先輩は、典型的な「なんでこういう風に考えないの」という人でした。
流石に前の記事で述べたような自分の考えに染めようとまでする人ではなかったけれど、自分が頑張ってるんだからお前も頑張れよ、という思想で僕を攻撃する機会があったのは間違いないです。
でも仕事が死ぬほどできた。僕とは違って。だからみんなその人をありがたがったし、影で言われることはあったものの本当に必要不可欠なのは先輩だった。
対して「あの人の考えは個を殺す主張で云々」と、仕事もできない雑魚の僕は、「まぁ頑張れ」と白いような温かいような目を向けられながら店長に慰められていたような…
思想なんて行動が伴わなければ無と同じ。
行動で成果を出せるならそれが大勢にとって善となる思想に様変わりする。
人間の行動は思想→行動だけれど、第三者は行動から思想を得る。
結果と過程には因果関係はあるけれど、その過程でどれだけ他のものを犠牲にしているかには目を瞑って。
他の方法があるんじゃないかと考えるのは、いつだってその中で犠牲にされた人達。
その後の僕は「先輩より仕事ができる奴になる」のが第一の目標だった。それは実現した。白い目を向けられるでもなく、何かと重宝される人材にはなれた。
多くの人の賛同を得られるかはわからないけれど、自分の主張が認められないから泣き寝入りして膝をつきたくはなかった。
前編の記事のことを考えている時に、ふとこのことを思い出していた。
大人になれっていう自称大人は間違いなく存在して、じゃあその攻撃を防衛するために僕たちには何ができるんだろうなと。
僕は過去、先輩に対して「実力を実力で上回る」ことで手だしができないようにした。大人気ないかもしれないし討論もないのかと思われるかもしれないけれど、そもそもここまで頑張らないと討論にすらならないと思った。
同じ土俵に立つために周りの評価から固めた。
先輩に「こいつなんだかんだ仕事できるよな…」と思われるまでは話にならないと思った。
やっているうちに先輩から罵声は届かなくなったし、なぜか僕が文句を言う前に先輩はめちゃくちゃ丸くなって、「ちょっと悪いことしたと思ってる」とまで言われた。
これでいいのかと思いつつも、頑張った結果得られたことだったので僕は納得していた。
正直こうやって語るくらいには納得していた。
自分の出い好きな音楽や絵の創作について納得できて語れるほどエピソードは現時点でないのに、先輩とのことだけは、自分の成果として、自分の手がらとして、
いうなれば「自分に合ったやり方」のような、吸いつくような方法と納得の仕方だった。
ここまで気付いて、これまで僕が考えていたモヤモヤが一気に晴れた。
本当に天恵が宿ったと思った。閃くとか稲妻走るとかはこのことかと思った。
今まで「モチベーションがない」「本当に好きなことのはずなのに頑張れない」「大人の主張に納得できない」
そう思っていたことの全てがつながった。僕が僕自身に抱いていた「なぜ」が、ほとんどすべてと言っていいほど解けた。
「めちゃくちゃ強いけど、なんか不条理なことを言ってくるやつ」
「めっちゃ評判いいけど、影では僕や僕の大事にしているものを散々傷つけてくるやつ」
「態勢の正義を語りながら知らん顔で多くの物を殺していくやつ」
それが僕は本当に気に入らなかったんだ。
社会のためと言いながら思想を殺していく労働のシステム。
俺のほうが勉強できるからと僕のことをボコボコに数人で批判してくる奴ら。
お前の絵なんて下手糞だと何も見もせずに声の大きさだけを武器に流布している奴。
自分は攻撃されているという振りをしながら対象をボコボコにして数で殺す奴。
数で自分達を正義と着飾って一人に暴言罵声を浴びせる奴ら。
全員ひっくるめて死ぬほど嫌いだ。お前はお前自身と周りをもっと見ろ。お前の生き方だけが全てじゃないしお前のような幸せな生き方に必ずしも全員が至れるわけじゃないんだよ。
何度、何度、何度そう唱えてきたか、呪ってきたか、数知れない。
先輩に対してそういう憎しみを抱いたこともないとは言えない。僕が頑張りだした頃は帰り道に呪詛を唱えながら本気で泣いていた気がする。何故か学校の帰り道で思い出して泣いていたこともあったと思う。
それくらい常に考えていた。侵食するくらいに。許せない不条理だった。
そして僕が憎む不条理はいつだって強い。人情がなくとも、悪い意味で人間らしい、利己的な、暴力的な力だった。
ここで、過去の自分への懺悔と戒めも込めて、一つ告白をしておきたい。
先ほどの呪詛でいじめに関連するような言葉が出てきたけれど、それにかかわることだ。
僕は大多数に攻撃されて死ぬほど泣いたこととか、滅茶苦茶悔しい思いをしたことは多々あったけれど、いじめられたことはない。
少数派のグループに属し、多数派には一緒に話せる部分だけ共有しながら、割といいとこどりの位置でどこにでも行ける身だった。
いじめたことはある。小学校の時だ。
彼の持つ先天的な弱みに付け込んで、大多数が非難するからと言って僕もそれに加勢した。
彼とは他の一人と僕とで3人グループでよく遊んでいた。家にもよく行った。
にもかかわらず、大多数が彼の障害に気付いた時、僕もそれに加勢した。
何故かははっきりと思い出せないが、そうしないと攻撃されると本能的に思ったのかもしれない。とにかく僕は彼に対して何の恨みもないのにそうしてしまった。
3人グループの一人は彼が虐められている時も彼の見方だったのに。そいつは僕に、なぜ彼を傷つけるのかと言っていたのに僕はそれに攻撃的に反抗してしまった。
結果、いじめの波が引いた後僕はとんでもない後悔に襲われた。障害を持つ彼とはその後一度も関われなかった。
中学では別の学校となったが、高校受験でたまたま受験校が被り、久々に見た彼を僕は直視できなかった。
その時にいじめの波を引かせるために貢献した別の子と一緒に受験に来ていて、仲良くやっていそうに見えた。
彼らに殺されても文句は言えないよな、と思った。
正直、彼らに殺されずにいるから今日まで生きているとまで思っている。書いていて怖い。過去の自分とその攻撃を受けた彼が本当に怖くて、申し訳なくて、もし彼が死んでいたら僕は今日まで生きていないだろうな、と思う。
許されるとは思ってないけれど、仲を取り戻せるかは彼が認めないなら不可能だけれど、せめて彼がもし挫けることがふたたびあるならば、今度はちゃんとしないといけないと思う。ごめんなさい。本当に、本当にごめん。どうか元気で生きてくれ。
話を戻します。
僕は大多数に少数が攻撃されている光景をみると、壁か机かを殴りかねないほどブチ切れることがある。
比喩ではない。
数人グループ旅行の際、マナーを少し弁えない行動をしただけの友達が、目撃した最初の一人を皮切りに、見てもない他の数人から畳みかけるように口々と、アドバイスというより感想を述べられていた。
これだから最近の若者はとか、ゲームばっかりしてるからとか、本筋と関係なさ過ぎるし誰のためにもならない主張が多分に含まれていたと思う。
僕はすっかり気分が悪くなって、外食の席で椅子を蹴ってトイレに行ってしまった。その後何事もないように戻って何事もなかったのだけれど。
すぐ手が出るとかめちゃくちゃちっちゃい人間だな自分。別に攻撃された子のためにもならないのに。
話題をそれ以上聞きたくないからと、利己的な理由で手が出てしまった。
その怒り癖は、僕が友達をいじめていたことに起因しているのだと思う。
大多数に呑まれた自分が大嫌いだったし、彼が溺れる寸前だった大多数も大嫌いだった。
考えのない主張がどれだけ恐ろしいか。
対象のことをまったく考えない主張がどれだけ恐怖と不快感と治らない傷を与えるものか。
考えるだけで自分の過失を思い出してしまうので、つい手が出るのだった。
やめろと言いたい。自分に。手を出さない解決法を選ばないと取り返しが付かないことになる。それは後悔している自分がかわいいだけだと。
でも思えば、僕が何かしら行動して結果を残した時は、必ずと言っていいほど打ちのめしたい相手がいた。
高校受験ではお前の実力では無理だと第一志望を除外されたので、もう内心怒り心頭で合格ラインをぶっちぎって合格した。
入学してから勉強できることを理由にイキる奴らが気に入らなくて、勉強で殴ってやると彼らより上の成績を取った。
仕事のできるバイトの先輩に主張と周りの評価とで殺されかけていたので仕事ができるようになった。
お前ら全員気に入らねえよぶっ殺してやる、もちろん言葉でも殺人でもなくお前らの得意分野でな、とか、
どうしても、「自分がある程度やってること」かつ「相手が自分より強い」、さらに「相手が自分を納得いかない理由で攻撃する」ときに、僕の実力は発揮された。
ここまで至って、ああ、なるほどな、と思った。
以前はぶちのめしたい相手に真っ向から挑んだけれど、今は「あと数年で別れられるしいいか」とか、「避けようと思えば避けられるし」と勝負を避けていたな、と思った。
別に厄介事を好んで起こしに行くのは良いことだとは思わないし、相手にとってもクソ迷惑なやつだけれど、
影でチマチマ努力を重ねて、外野に「あれ、アイツのほうが仕事できるんじゃね?」と思わせて外堀りを固めるのが僕の方針なので、別に真っ向勝負ではない。
気付いたら相手の城を囲んでいて、相手は僕と仲良くなろうとするとか、それが無理なら外堀から負けを認めさせるか(流石に攻撃はしないけど)、それが僕のやり方だ。
別に迷惑なんてかからない。相手にとったら、気づいたら同じ土俵に丸腰の別人が立ってて、仲良くなりたそうにしているだけだ。
僕は音楽が好きだけれど、どうしても納得のいかない相手がいる。
数年前、僕よりギターの上手い年下にすごい迷惑をかけて、軽音楽部の活動に支障をきたすのでライブ活動を出禁にされた。
正直僕は不注意で悪いことをしたしその時の言い訳も凄まじく悪かった。僕は彼が部長となった後に部に入った部外者なので、悪印象を抱かれて当然だった。本当に悪かった。
ただ彼は周りからの評判があまり良くない。高圧的だとか、人の話を聞かないとか、自分の主張を押し通すとか言われている。
バイトの先輩とは逆である。ギターはめちゃくちゃ上手いし部の運営もしているが周りの評価は悪い。だけど僕が迷惑をかけているのは共通だ。
僕は彼に申し訳ないと思う気持ちと、ギターで勝ちたいという気持ちと、できれば同じ土俵に立って仲良く音楽の話でもしたいよなぁという気持ちとが競り合って、
結局彼に勝つというビジョンがよく思い浮かばなくて現在に至っている。何も解決せず今日を迎えている。
この後あたりだ。僕がモチベーションで悩みだしたのは。
彼の問題が解決しないから、僕は必然的に彼を避けた。避けることを覚えてしまった。向き合って真正面から物理で殴ることを忘れてしまった。
だから今では、この記事の考えにまで至った今では、この不条理に対する憎しみも捨てたものじゃないよな、と思えるのだ。
やっと僕は思い出した。
年下の後輩から逃げていて忘れたことを、僕を僕たらしめる、僕が僕の存在を認められる最大の動機と、それによって勝ち取ってきた過去を。
僕は不条理や納得がいかないことに対して、そいつの得意分野でマウントを取るのが好きなのだ。
そうすることで同じ目線で話ができると思うし、そうしないと僕の考えと相手の考えを示し合わせる機会は永遠に作れないと思っている。
第三者の仲介とか、状況によって和解とかもあるけれど、それは相手の本質にまで踏み入った話じゃない。僕は本当に身勝手なので、納得の行かない相手には思想にまで土足で踏み入りたいと思うのだ。
それを荒らしたいとは思わないけれど、僕の考えもちょっとは聞いてくれよ、君の考えも好きなだけ聞くからさ、そうじゃないと腹の虫が収まらない、そんなことを考えている不法侵入テロリストだ。僕は。
絵や音楽でモチベーションが保てなかったのは、憎むべき相手がいなかったからだと思う。
正直どの絵を見てもすげーな手が掛かってるな、美しいな、人間性が伝わってきて本当に良いな、とか、肯定的な意見しか出ないし、音楽も完全にそうだ。苦手なジャンルに対してさえそう思う。これ作れるのはすげーよって。
僕は不条理を思い出したい。粗さがしではなく、いつしか年をとって忘れてしまった、埋没した僕の主張を洗い流さず回収したい。
それがきっと、僕のモチベーションを、僕のアイデンティティを、僕の生き様を取り戻すための方法だ。
子供であるということは視野狭窄であることだ
今日、二つの大きな気付きを得た。
二つの気付きは連結していて、そのうち一つは、僕の人生にとって非常に重要で、あまりに致命的なものだった。
それが思い浮かんだ瞬間に直感した。これが僕の求めていた自分自身の解だと、これが僕のあるべき、僕の納得の行くパーソナリティなのだと。
二つの気付きを気付いた順番に二つの記事に分けて書きたいと思う。恐らく非常に長くなるので。
一つ目は「子供だと言われるのは、視野が狭いと思われる行動をしているから」という気付きだ。
そもそも僕は「もっと大人になりなさい」「いつまでも子供みたいに夢ばかり見ていないで~」という、あまりにも定型化しているこのフレーズが大嫌いだ。
何故嫌いなのかは今日まで説明ができなかった。
「頭ごなしに否定をするな、おれ自身とおれの実力を見て言え、おれの信条やおれが人に与えてきた影響を見ずに言うな」ということはなんとなく言えたのだけれど、その主張はどちらかといえば私見を多分に含んだ感情論だった。
そもそもステレオタイプすぎるこの定型文は生の声で聴いたことはほとんどない。親かって僕の夢を打ち明けたときにそんなことは言わなかった。お前が思い描いているほど夢に溢れた世界じゃないよ、一つの仕事だよ、とだけ言われたと思う。今思えばそれに関しては良い親に恵まれたと思う。
とにかく、あまりにも実生活で聞いたことがないので、「もっと大人になれ」のフレーズは僕が僕自身に突きつけている命題なのだと思う。恐らく、記憶にはないけれど過去いつかに誰かに言われたことを、自分の頭の中で勝手に反芻して悩んでいるだけなのだ。
最初に言った人からすれば知らない話だ。だけど僕はこの主張を覆したかったのだと思う。最初に与えられた言葉を自分の中で増幅し、その影と戦っていたのだと思う。
この戦いの末に得た結論から述べれば、タイトルの通りだ。
子供であるということは視野が狭いということ。この一言であり、この一言以上に解釈をしていいものではないと思う。
僕たちは飯を食べて明りのもとで風呂に入り住居で寝入る。
その日常的な行為だけでも他の幾万の労働人口を消費している。多くの人の時間と労力、血と汗と涙があって、今日という当たり前の暮らしが成り立っている。当たり前のように犠牲を払うことで当たり前は成り立っている。
僕に「大人になれ」と言った人の主張は、多くの人間はこの現実を見て、苦しくても日々頑張っているんだからお前もがんばれ、お前もそれを享受している一員なら当然だろ、ということだった気がする。
僕はどっちかというと体育会系で(中高+αでガチガチの古典的な運動部だった)、根性論や感情論はどちらかというと分かってしまうタイプの人間だった。
だから聞いていた最初は「みんながんばってるんだからおれもがんばらないとな」と、オールフォーワン・ワンフォーオール理論に一定の賛同をしていたのだけれど、しかし時間が経つにつれて徐々に疑問符が出てきた。「みんな頑張ってるから頑張らないといけないって本当に万物に言えることか?」
やがて僕と同じ疑問を持つ人が一定数いることをネットを始めてから知って、次第に「大人になれ」発言にムカついてきた。
この言葉を含め、あたかも当然のように謳われている根性論がもしも悪しき風習で全くの間違いなのだとしたら、"みんな頑張ってるからお前も頑張れ"理論は詭弁じゃないか。
しかもこの理論はこの言葉たちを防衛するための機能すら含めている。「でも」という疑問に「みんな頑張ってるのにお前は頑張らないのかよ」と、協調性につけこむような発言で攻撃する。
これって汚いことじゃないか?正しいか正しくないか、幸せか幸せじゃないかに関わらず自分側に惹き込もうとする、そのために根性論で無理くりやらせようとするのって。
長くなったが「大人になれ」の主張を僕が嫌うようになった経緯は以上の通りだ。
だけど「僕らの日常が犠牲の元で成り立っている」のは本当で、「じゃあ僕らが守りたいと思う人や街も、結局はこの方法で守っていくしかないんじゃないのか」とか、「今まで僕を支えてくれた見ず知らずの先駆者や親や恩師を裏切って、継承を裏切って良いのか」という葛藤はまだ存在した。
少し切り口を変える。彼らの言う「子供と大人の違いは何か」ということだ。
子供というものは属する共同体が狭い状態から始まる。
生まれた家族。幼稚園のクラスや先生。小学校ではその枠が6年生数クラスの校舎全体へと広がり、塾や習い事であらたなコミュニティに属し…
(インターネットが普及した現代では、過去に比べ若い時分から国内や世界の共同体と触れる機会も多いかもしれないけれど、それは例外として)
全ての動物は自分と自分を取り巻く環境を安心し安定したものにしようとする本能がある。
それを踏まえると、順当に人間が社会的な機能を有するまでに経過するプロセスは、以下のように分けられると考える。
①幼少期に自己を守るために泣き駄々を捏ねる(本能的に)
②自分を防衛しないと大前提として生きていけない事に気付く(ここから理性的に)
③自己を防衛するために周りの人間が奮闘していたことに気付く。周りの人間の好意や意図があったかは別にして。
④自己を防衛するためには自己の周囲、自分の生存・生活・精神のために必要な人間を保っていく必要があることに気付く
これは「大人になれ」理論を振りかざす人間が描いている、人間社会で人が生きていくために必要な心の過程だと、僕は考える。妄想では無いことを祈る。
全ての人達がこのレールを順当になぞっていくわけではない。途中で道を外れる人もいれば、大の大人でも①か②かで止まっている人もいると思う。
子供というものはとにかく最初本能に従って自己を防衛するために泣いて泣いて泣き叫ぶ。近くにいる母親を誘引して保護してもらえるよう、自己の不安を取り除いてもらえるようとにかく泣く。
泣き虫を糾弾するつもりは全くないし僕も泣き虫側だけれど、その中でも泣けば許されると思ってる人は少なからずこういう本能だけが理性を伴わず残っているのだと思う。
(本当に体の弱い人や知性の弱い人はこういう風にして自己を守るしかないのでどうか攻撃しないでパーソナリティとして納得したほうがいいと思う)
やがて子供は幼稚園・小学校という共同体を経て、親以外の存在と出会う。
いや、親のパイプラインやたまたま外で遊んでいる時に出会うかもしれない。ある意味幼稚園・小学校という共同体はこれらの出会いが必然的であるだけで、出会いのための必須要項ではない。
とにかく親の庇護のもとにあった子供は徐々に多くの人間と出会うようになっていく。そしていろんな子がいることを知る。
ここが「大人か子供か」にとって最も重要な部分だと考える。
「どれだけ周りが見えてるか」だ。「どれだけ他の人間の様子にアンテナを張れるか」だ。
話しやすい子。話しにくい子。好きな子。嫌いな子。
みんなの中心となる子。中心人物を崇拝する取り巻きとなる子。それに排斥される窓際の子。
本能のまま泣きじゃくる子。逆に泣けば誰かが助けてくれることに付け入って泣く子。痛みを黙って溜め込む子。そもそも痛みを人より感じない子。
話しやすい先生。話しにくい先生。好きな先生。嫌いな先生。
みんなに慕われる先生。偉い先生におべっかばかり使っている先生。あまりいい噂を聞かない先生。
感情的な先生。感情的に立ち回ることで相手を強制的に黙らせる先生。
逆に怒りを抑えて、対象の子のことを考えているように見える先生。対象の子のことを考えているのよ、と主張しているが本当はそう言う自分に酔っているだけで相手の反応を見ていない先生。
気付く時期は人それぞれだから遅すぎるということはない。
ただ「学校」という共同体がなぜ存在するのか、社会全体へ貢献する人材を作るという意味で合理的な解釈をつけるなら、「こういう心の過程を経て、学校という組織内で大人になっていく」のが、社会全体から想定されたケースなのだろうな、というだけの話だ。
抽象的に「好き」と「嫌い」であること。
自分が感じる好みが一体何に起因しているのかということ。
好きな対象は自分にとって都合の良いだけの人ではないのかということ。
好きな対象は誰もにとってのヒーローではないこと。
こうして「好き嫌い」の抽象概念から「なぜ好きなのか」という具体例を挙げ、その具体例の数だけいろんな人間がいることを知ること。
ここが「大人であるか子供であるか」の最大の違いだと思う。
要は「周りが見えているか見えていないか」だ。
そして、この気付きを周りの人に見える形にしているかは別として、①「見えているから大人にふるまう人」、②「見えているけど大人にはならない人」、③「見えていないけど大人っぽく見える人」、④「見えてないし大人じゃない人」がいる。
③はただの天然だ。きっかけを与えれば「ああ、そういうことだったんだな」と気付くと思う。本能的に気付いてはいるけど理性的に気付いていない。でも社会ではありがたがられると思う。
「大人になれ」理論者にとっても反対者にとっても、いやそこは大人になれよ、と言いたくなるのは④だ。
電車で匂いのきつい食べ物を音を立てながら食べる人、病院の精密な診察室前で大声で電話をする人、目の前で店員が必死で駆け回っているのにわざわざクレームを立てる人。
僕は今まで遭遇したこういうTPOを本当の意味で守れない人に対して「今じゃないだろ」と何度唱えたか知れない。
別に今その密閉空間じゃなくて駅構内で食べるとかない?ちょっと外に出てしゃべるとかない?そのクレームってお客様のありがたいお言葉でも店に将来役立つ貴重な意見でもなく、今待たせている多くの別の客や必死で頑張ろうとしている店員の足をとっつかまえてわざとこかせているだけじゃないの?
④の人は本当の意味で周りが見えていない。
自分以外にどんな人間がいて、その人が自分の生活あるいは他者の生活のためにどれだけ奔走しているか、逆にそうでない暇な人がいるか、奔走したいのに希望を見出せなくて蹲っている人がいるのか、とにかくその全てが見えていない。
見てくれ。頼む。真剣に生きている人の足を挫くのはもうやめてくれ。お前の不幸なおつむの呪う以外に矛先のない、この無情な解決策をどうかお前の気付きで終わらせてくれ。
ただ、一見④に見える人の中にも実は②だ、という人がいる。
本当に急いでいて、手持ちも匂いのきつい食べ物しかなくて申し訳ないと思いながら電車の中で食べる人。
本当に重要な用事で、今大声で引き留めないといけない人がいるとかで場所を選んでられない人。
明らかに店が上手く回ってないので、こうしたらいいんじゃないかとつい言ってしまう人(まぁこれはちょっとアレな人だけど…)。
TPOを守るなら、多くの人の都合を考えるなら良くないだろうな、と考えているけれど、自分や自分の周りの環境を守るためにどうしても必要だと思って決断する人。
いろんな意見があると思うけれど、僕はこういう人に強く惹かれるしそうなりたいと思っている。
まぁ時々、分かっていたけど自分の怒りが収まらないのでやった、という人はいるけれど…これは本人や周りの環境にとって本当に有益か考えてやってほしい。でもそれであなたの気が晴れるなら仕方がないと思う。
人殺しになるかならないかの境界はこのあたりにあると考えているのだけれど、それはまた別の機会に。
なぜ②の人が必要か。
それは①の人の中に二パターンの人間がいることと関係している。
①-1は「社会がこうやって回っているんだからお前もそうしろ」という人だ。
最近twitterとかで批判されるブラック企業とか日本的な体質とか団塊世代とかはほとんどこれに当てはまるのだと思う。
近年よく攻撃される側で、僕に「大人になれ」と言ったのも確かこういう人だ。
①-2は「①-1の存在に逆らえない人」だ。
自分のやりたいことがあるけれど、①-1の主張を守らないと自分の生活圏が破壊されると思っている。だから自分のやりたいことができない。
さきほどの例でtwitterで批判する側の人達の多くがこういう人達だと思う。
①-1の人のせいで自分のやりたいことができない、何かと窮屈に感じている、下手すると社会全体を呪ったり自分の幸福を大きく損なっている人。そして今そういう人は少なくない。そうじゃないとあんなにRT稼げないでしょ。
まとめると、
①周りが見えていて、自分も周りの通りに行動しようとしている人(大人でいて、大人であるように見える人)
②周りが見えていて、でもすべての行動において周りに貢献しようとはしない人(大人でいて、大人でないように見える人)
③周りが見えてなくて、でも周りの通りに行動しようとする人(大人でなくて、大人であるようにみえる人)
④周りが見えてないし、意図せずとも本当に周りに迷惑をかけている人(大人でなくて、大人でないようにみえる人)
そして、
①-1 自分と同じように周りの人間も大人であるべきだ、と主張する人
①-2 周りの人間も大人であるべきだ、と言う人に逆らえない人
ここまでで僕が観測した事実だけは十分まとめられたと思う。
「子供であるということは、周りが見えていない、視野狭窄であるということ」
「大人であるということは、周りが見えている、視野が広いということ」
「周りを見て行動する人にも、周りのためになることと一見ならないことをする人がいるということ」
「本当に周りをみていない人もいて、そういう人は周りを見たほうがいいということ」
ここまでの事実を含めても、僕は「(自分や社会は大人であるから、お前も)大人になれ」という主張には首をかしげる。
いやまぁ別に、そういう人と和解する道は存在するから、別にそこだけでその主張者全てを否定する気はないけど。
そういう人にも探してみればいいところがいっぱいあったりする。僕はそれに気付くことで「自分のほうが大人じゃん。視野広いじゃん。うぇへへ」と一人悦に浸ったり…はしないけど、そう思われても仕方のない解釈で、「大人になれ」理論者と一定の距離を保っていると思う。
あくまでその意見が死ぬほど気に入らないだけで、もしかするとその背景にはその人の生活やその人が必死に守りたいものがあるかもしれないので、急にそういう人にマウントを取って全否定するのはヤバいと思っている。そういう人は④の人と同じだ。嫌いなものを嫌いでありたいだけで周りのものが見えていないヤバい奴だ。
そういう奴には僕はその理論者と一緒に「お前はもっと大人になれ」と言うと思う。そう言うときだけは友達だ。やったね。
上の行間を補完して「大人になれ理論者には首をかしげる」をちょっと訂正すると、
「大人になれ理論者でも④の人に対してならいいと思う」
「けど①-2とか②に対して言うのはちょっとお門違いじゃないか」と思う。
簡潔に言うなら、それってお前の都合で他者を取り込もうとしてるだけじゃん。と思っている。
①-1理論者、「みんな大人だからお前も大人になれ」理論者は、その性質上他者を取り込まないと自身の構築する環境が成り立たない。
彼らが無事平穏に生活するためには、彼らが自分自身の生活圏を保つには、彼らの周りにいる人間を「大人な行動者」にするしかないのだ。「子供な行動者」を排斥するしかない。
自分達が生活するために必要な交通網・インフラ・食事・娯楽…そしてそれを遂行する人間が「みんなが頑張ってるから頑張ってます!」という主張者じゃないと気が済まないのだ。
そういうモチベーション行動できる人も、まぁもしかしたら、万が一、よしんば、いるのかもしれないけれど、それを全部の人間に押し付けるのははっきり言ってヤバいと思う。
「みんな頑張ってるのに頑張ってない」人間は一人残らず殲滅しないと彼らの掲げる哲学は実現しない。
そしてそういう人間のほとんどは一般企業の社員だ。
「お前が生きてきたのは親が無私でお前に奉仕してくれたおかげだ。お前の知らない人達が汗水たらしてインフラを整えていたおかげだ」
「だからお前もそのサイクルを回していかないといけないんだ」
一つ目の主張は残念ながら事実だ。そのことには僕は感謝しているし、サイクルを今日も変わらず回している人は本当に尊敬するべき対象だ。
僕の恩人に自営業で中古業者をやっている人がいるが、来る日も来る日も会社に勤めている僕の母親をひどく尊敬していた。
好きなことを追求するのもいいことだ。でも社会を回すために貢献している人も凄く偉い人だ。俺にはできない。
僕は最初、何言ってるんだこいつ、自分の好きなことを追求するのの何が悪いんだよ、と行間の読めないヤバい奴な考えを抱いていたが、今は分かっているつもりだ。
サイクルを回す人のおかげで今日の生活を享受している。自分の労働を他人の労働に変換することで今日の平穏を得ている。どうあがいたって事実だ。
子供はどれだけ親が嫌いでも、その親の子であることからどうやっても抜け出せない。カエルの子はカエル。たとえ反面教師だとしてもその親の影響あって自分が形成されていることは事実だ。それと全く同じことで、社会に属して今日まで生きてきた事実だけは変わらない。
親も社会も憎めば憎むほど、皮肉な状況になっていくのは事実だ。受け入れる他ない不条理だ。
ちょっと話が逸れたけれど、つまり、
「今までお前は社会の労働力のおかげで生活してこれたんだろ、それを認めないとは言わなせない」
わかる。
「だからお前もその輪に入れ。参画しろ。次の世代と今の世代を守るために貢献しろ」
わか…いや、ちょっと待ってくれ。それは違うだろ。
それは「お前の意見じゃない」んじゃないか?
私見で各主張者の結論を述べる。
①-1理論者は狂信者だ。
①-2理論者は狂信者のコミュニティに属するしかないと思いこんでいる人達だ。
②理論者は自己のために生きる者だ。①-1に対して疑問符を持ち、①-2はこの②になることもある。
③は良い奴だけどたぶん馬鹿だ。たまたま上手く生きていく方法を引き当てられたが、なぜそれでちやほやされるのかは分かってない。これから①や②や④になれる。
④は本当に馬鹿だ。馬鹿だからと言って見下していいわけでも罵声を浴びせてもいいわけでもないが、本当の意味で天災を引き起こす可能性があるので早く自覚してほしい。
ここで①-3理論者の存在を設けさせてほしい。
「周りが見えているし、周りのために貢献しているが、万人がそうであってほしいとは言わない人」
①の共通点は、「周りが見えているし周りのために行動している」ことだ。
①-1は「周りもそうしろ」で、①-2は「②になりたいけど…」で、①-3は「みんながみんなそうするべきではない」だ。
ここでまた、②-1と②-2理論者の存在を設けさせてほしい。
「周りが見えているけど、周りのために必ずしも行動しない」ことは共通だ。
②-1は「なんで人類全員が自分のために生きないの?」と思っている。
②-2は「僕にとってこの方法が一番幸せだけど、みんなにとってそうじゃないよな」と思っている。
ぶっちゃけ①-3と②-2が全部なら、世界平和にはならないだろうけど、もうちょっとマシな世の中になると思う。
そしてこれが僕が思う「本当に大人である」ということだと思う。
かなり話を戻すけれど、子供は本能的に自己を防衛し、成長につれ周囲の存在に気付き、やがて周囲なしには自身が成り立たないことに気付く。
この途中で脱落したら③や④になり、最後まで到達することもあれば一生到達しないこともある。
そこからまた分岐があるのだ。
自分の共同体のために、周りの人間も自分の考えに染めるしかない、と偏執する①-1、②-1の人。
そういう人達に怯えて、「思考」や「自身」とは何か見失って、絶望してしまった①-2の人。
自身の幸福のための共同体を守り、他の共同体には手を出さない①-3、②-2の人。
世の言う「大人」だけでも、これだけの種類が存在する。
①-1を僕が憎む理由は、①-2を生み出してしまうことにある。
①-1に染まって①-1になれたならそれはその人にピッタリな生き方なのだろうけれど、①-1の人は②を描いている人に対しても分別なく「大人になれ」「こっち側に来い」と言うのだ。
それは②になったかもしれない①-2のの人が生み出していたかも知れない未来の可能性を踏み潰す行為だ。
それはその人の人生そのものを奪う行為だ。
「主張に流される奴がいけない」のかもしれないけれど、なら尚更、どっちにしようか迷っているなら尚更、強引に吸収するのは本当に人道に反している最低な行為だ。
そういう商売が沢山存在する、他人の悩みや弱みに付け込んで自分の側に惹き込むことが善とされることが蔓延しているのは事実だけれど、僕はそれにだけは本当にNOと言いたい。それだけは絶対にダメだと言いたい。
それは①-1理論者にとってもいい結果を生まないのだ。共同体に完全な非賛同者を無理矢理惹き込むことで生まれるのは、本人の破滅か、その本人の謀反による組織の破滅だ。
そうなると①の共同体にとっても②の共同体にとっても、誰も、誰一人も得をしない結果にしかならないのだ。
「自分はこれが幸せだし、世間で言うやりがいっていうやつを感じている。けれどそれを全員がやる必要なんてない。みんなが色々考えて悩んで、その末で納得できたことをやるべきだ」
僕はこういう人の考えを最も推している。
やりたいこと≠仕事になること であることは往々にして存在する。
だから「やりたいことをやるべきだ」という主張はちょっと現実を欠いている。②になりたかったのに①になるしかなかった人という枠は存在する。だから「やりたいことをやるべき」理論者という②-1グループがいる。
悲しいことだけど、やりたい夢が生きていくためのものにならないことはある。
僕はまだそれを受け入れられていない方だけれど、そういう現実を認めて②-2になれるなら素晴らしいことだと思う。
①の人は世の中に必要だ。この社会を回していくために、変わりない生活を享受するために必要だ。それはそれで本当に偉い。彼らの存在なくして僕は生きていない。
だけど僕は②の人になりたい。「みんな頑張ってるから頑張れ」はおかしい。①の人を尊敬すると同時に、それは①の人が好きでやっているはずのことなのだから、それを享受する側もそっちの思想に合わせる必要はないし、それに②の人が誰にも貢献できないなんてことはない。
誰かに貢献しているから仕事になるのだ。①でも②でもそれは変わらない。どちらが正解でもどちらが逃げでもない。それは本人が納得した答えならどちらでも最善となるだけだ。そこに他者の思想や過去の繋がりが土足で干渉していい理由はない。
だから①-1の狂信者は、自分のコミュニティに籠って同じ思想の人と仲良くしていてほしい。頼むから自分達が人類のために最も尊重されるべき存在だとは誤解しないで、自分達のやり方を②の人に押し付けるのをやめてほしい。芽を摘まないでほしい。①-3であってほしい。
今回は以上です。煩雑で推敲もしていません。同じ主張が何回も被って、本筋の見えない脱線が何度もあります。読みにくくてすみません。もっと文章構成力があればいいのにな。
一つの記事で語るにはこれでもかというほど詰め込みすぎているので、他のブログみたいに「一つのテーマにつきいくつもの記事がリンクしている」形態をとるのもいいかもしれませんね。アクセス数稼ぎかよって思われるかも知れないけどアレめっちゃわかりやすい。そもそもこんなオープンでないブログに対してアクセス稼ぎとか言うなよ。
冒頭の通りこの話は全二部構成の前編です。
後編はさらに話が逸れて「ぼくのかんがえたぼくのための記事」色がかなり強くなります。
そしてここまでで二時間半執筆にかかってるのでいつ完成するかわかりません。
でも本当に自分にとって必要な気付きだった…と思っているので、今後の人生にとって間違いなくターニングポイントとなる、自分の個性にかかわる最大の気付きだったと思うので、自分のためにも他を顧みずまとめたいと思います。
次回は「それでも大人になれという人をぶん殴るために生きてきた」という旨の記事の予定です。
純粋な"好き"と、ステータスというか意地というか、プライドとしての"好き"
とある事情により料理を始めることになった。
僕は日頃料理をしない。全くしない。カップ麺か親の脛だ。
ケチなので外食も買い食いもほとんどしないが、節約のために料理をとか考えたことはない。
つまり料理において全くの素人だけれど、幸いにも知り合いに農家がいて、脳死状態で調理してもおいしいという魔法の野菜が、それなりの数で供給される。
食材の暴力でそれなりにおいしい料理ができる。上手い調理よりも上手い食材だ。僕のスキルはあまり介在しない。気楽にやってる。割と楽しんでる。
僕は音楽と絵がめちゃくちゃ好きで、自分では人並み以上に音楽を聴いて研究しているつもりだし、絵はあまり自信はないけどずっと続けてきたことだしいつか絶対に…とまぁ、のっぴきならない意気込みがある。
対して、最近数日始めたばかりの料理とか、半期だけ受講する科目とか、たまに人と集まってやるバスケとかバドミントンとか、そういうことに関しては特に意気込みはない。勝ち負けでも競争でもなく、ただ楽しんでやる方法を探すだけのことだ。
本気でやってる人に勝てないことがわかってるから、適当に気楽にやって楽しめばいいと思っている。必要に駆られているのならば楽しんでやる方が得なので、人と比較することはそのために必要なことじゃない。
本気でやろうとしていることは負けたくない。ちょっとへらへらしてるだけの奴には負けたくないと思う。肩と肘は常に張っている。"できない"ことで苦しむことも多々ある。
逆に、自分がちょっとへらへらしながら、特に時間を割くでもなく時々やる料理とかは、自分が設定するハードルが低くてとりあえず楽しい。手軽に挑戦と"できた"を体験できる。
僕は気付いてしまった。精神衛生上後者の方が絶対に良い。
上手い人を妬みながら、上手くできない自分を呪いながら、自分で自分の立ち位置を狭めて苦しむ道はとても長く険しい。
上手い人とは別の世界で、とりあえず美味しければいい、形になればいい、の低いハードルで挑戦と達成感とそれなりの評価をもらえる「適当な趣味」は、毎日手軽にできる"できる体験"は、心の平静を保つためにめちゃくちゃ有益だ。
幸せに生きたいなら後者を選べと思う。
もちろん、その人にとって「手札をチマチマ増やすより、やりたいことを徹底してやりたい」「将来なりたい自分の像になってないと後悔して自死する」ならば前者を選ぶのもその人の道だと思う。モデルは僕である。
つまり僕は、音楽や絵をやりたい僕は、「創作技術に極振りしよう」「Slipknotの故人の教え"友達がいなくなるまで練習しろ"を遵守したい」「他の生活技術より対人関係より、自分のやりたいことで居場所を見つける方が素敵だ」
なんてことを考えている。常日頃考えている。
ただ、ただ…本当に情けない話なんだけれど、
本当に残念なのは、正直に話すと、これらの意気込みは、ほとんど「口だけ」の状態になっている。
「なりたい」だけが一人歩きして、首を絞め続ける日々がどれだけ続いたか知れない。
周りの人間に締め切りを表明して、ここまでやるぜ!ここまで計画してるぜ!ということを宣言してやろうとする。
今、その宣言をぶっちぎっている。
とにかく僕は約束を守るのが苦手で、いやそれはこの話の本質じゃないのだけれど、とにかく約束とか締め切りとかを条件にしても、僕は僕が好きなはずの創作活動を継続するのが難しい。
軽く自己嫌悪になる。いや軽いものじゃない。人とかかわらないようにしてモチベーションを保とうとか、他のやるべきことが自分のやる気を削いでいるんだとか言って完全放置したりとか、もうやることが反抗期の不良だ。駄々をこねる子供だ。
そんなこんなでずっと悩んでいる。「好きってなんだ」ということを。
「好きなことならずっと続けられる」というのは本当によく聞く言葉で、僕がめちゃくちゃ尊敬してる作曲者の方も同じことを言っている。
そしてその人の作業工程を時折覗いていると、しかめっ面で悩んでいる場面もあるけれど、そこから抜け出そうとする過程が本当に楽しそうである。
好きなことに関してなら困難ですら笑って乗り越えられる。これが本当にその物事が好きだということだ。
僕の「好き」って、この純粋な動機としての「好き」ではないんじゃないだろうか。
そう不安に思うことがあった。
好きなことなら続けられるというなら、続けられないのならそれは好きではないのでは?
いやいや、僕は確かに音楽をずっと聞いているし、バンドの情報とか音源やVSTのことは日々情報収集してるし、これが好きじゃないというなら何なんだよ。
そう考えて、自分への不信を言い包めてきた。
とある事情により料理を始めることになった。
食べてくれる人はいる。評価してくれる人がいる。そこは恵まれていると思う。
その人に言われた。
「料理してるときすごい楽しそうだよね、向いてるんじゃない」
その言葉は僕に今なおぶっ刺さっている。
それは、「料理に向いてるといわれて夢見心地の上機嫌」ではなく、「才能という言葉を全否定したい人間なので、そんなことを言われて当惑している」というひねた理由でもない。
単純に、「音楽でそれを言われたかった」と思った。
その人は僕が音楽をしているところを結構日々見ているけれど、それに関して褒めてくれたことは確か一度もない。
そして「楽しそうだね」という言葉も言われたことはない。それがすごく引っかかっている。
僕は音楽をしている時、客観的に見ても楽しそうでないのだろうか?
とにかくそれがとても不安になってしまったのだ。
僕の"音楽が好き"は、きっと今、尊敬するあの作曲家のような、壁に当たってもわくわくしながら乗り越えていけるような「純粋な音楽好きのメンタル」じゃないのだと思う。
僕の"音楽が好き"は、周りに言ってしまった言葉を、昔の自分が叶えたかった夢を実現するためにやる、ただ僕という人間を強化するために行う「プライドとしての、自己主張としての手段」でしかないのか。
肩の荷が降りなくたっていいけれど、苦しんでもがいて最後に笑えたらそれがいいと思っているけれど、
笑って楽しんでやってるバンドが羨ましいとかは思わないけれど、恩師に恵まれた友達に恵まれた発言は認めないけれど、
僕の"好き"の正体はただの意固地なアイデンティティでしかないのだろうか?
厳しい指導も要るという場合
昨日(ついさっき)書いた「スパルタは必要か」の記事がひどい。
結論を出せずに半投げやりで終わってしまった。
と小一時間悔やんでいたので、結論を出せる形で書き直すことにしました。
「厳しい指導は必要か」の問に対して結論を述べると、「必要な人には必要だし、必要な場合には必要」で、「僕にとってはたまたま必要だった」と思うし、「指導側の保身しかない指導はよくて一時凌ぎにしかならない」と思っている。
三人目の「バイト始めたてのころボロカス僕を怒り続けた先輩」の話に絞ります。
前提として、僕は最初、全然仕事ができていなかった。
言うこと為すことおっちょこちょいで、とにかく噛むし、お客さんの言葉を聞きとれないこととか、それに対して上手く声を大きくしてほしいとかの要求を上手く出せなかったので、えらく機嫌を損ねたこともあった。
そして単純作業の覚えはかなり悪かった。ここは綺麗にしてくれ、ここは多少雑でも良い、という先輩が教えてくれる線引きをなかなか守る事が出来なかった。
立ち位置が定まらないまま、特に長所もないまま、なんとなく白い目を気にしながら一年を過ごした記憶がある。
バイト自体はシフトの融通が利くものの当時の最低賃金ギリギリの仕事だった。
要領が悪く白い目を気にしながら、最低賃金であることを友達に揶揄されながら、毎週多少怯えながら働いていた。
だけれど、そんなバイトでもいつしか非常に快適になり、5年も続けられた。
理由はいくつかある。給料が上がったとかもある。
大きいのは、採用してくれた店長が要領の悪い僕によく話しかけてくれたとか、長く続けていると古株の先輩ととても仲良くなれてそれで離れられないとか、良い先輩に出会えたことだと思っている。
けれど僕にとって当時、良くも悪くも最も働くことに影響を与えていたのは、「毎週土日にバイトに入るとほぼ必ずいる、一つ年上の滅茶苦茶に仕事ができる先輩」だった。
実は先輩とはほとんど同期でバイトに入ったのだけれど、まず先輩は他の店でバイトの経験があった。以前の店では学生なのに深夜残業同然の時間まで働いて、その上給料が出なかったらしい。つまり先輩のほうが経験がある。
さらに、日曜日を除くほぼ毎日の部活動の僕と、週数回の外部クラブで活動している先輩とではシフトの日数がかなり違う。「同期」という括りで見るなよ、というぐらい経験の差があった。
最初こそ同じく初心者として教育されたが、数か月や一年経つとその差は歴然だった。
そして基本的な担当場所も同じだったため、シフトが同じ時は先輩の子分のような立ち位置で運用されていた。
いよいよ先輩から無茶な指示と怒号が聞こえてくるようになるが、僕は店の誰よりも先輩に最も近い立ち位置で、ほぼ毎回ボロカスに怒られていたのである。
もっと正確に言うと、高校生男子であった僕は、一つ上の高校生女子に、さらに結構スポーツの年季が入っている感じの(比喩でなく本当に当時全国大会とかに行ってた)、文字通りスパルタ系で多少ウェイな、正直怖い先輩と最初の数年を過ごした。
一度に4つ以上飛ぶ指示。その指示をこなしている途中に飛んでくる指示。ちょっと確認に行くと結構すごい剣幕でどこで詰まっているか尋ねてくるので油断ができない。
先輩の製作を手伝っていると「もっと早く、詰まってる」と「そこ汚い、綺麗にしないとお客さんに出せない」と「今は急ぐ必要ないからとにかく綺麗に」と、まぁ両立の難しく抽象的な指導が入る。
そして一つでも失敗すると、指示を出した自分ではなく僕が悪い体に必ずする。何度か指示を顧みてくれと思ったことがある。
しかしそれを言っている当人はめちゃくちゃ仕事が早く、製作と指示をしつつもう一つ別の人と連絡しつつで仕事ができる人だった。ただの一バイト店員ではあるけれど、間違いなく当時店の運営に大きく貢献していた人だった。
厳しい指導に対して色々言いたいこともあったけれど、言いたいことの内容がこの実績を上回るくらい有意義なものかというと全然そんなことはないし、
それより指導されてもパフォーマンスが悪い自分を顧みろ、と反省せざるを得ない状況だった。
正直めちゃくちゃ悔しかった。何を言っても仕事ができる実績とパワーには勝てなかったからだ。
だからすごい頑張った。パワハラ寸前のハチャメチャな指示をなんとかこなそうとした。「綺麗にする」はひとまず忙しすぎて無理なので、「誰より早くやる」を要領が悪いなりに頑張った。
綺麗にならないことに対しては二年くらい怒られ続けたが、とにかく早くなった。
当時僕は「店の床を滑る男」と呼ばれていたらしい。1000円の安いローファーで脂ぎった床を駆け回らなければならない。足を挙げて力を入れると帰って滑って危ないので、諦めて意図的に滑ることにした。障害物や人がなければ安全である。馬鹿みたいに早くなった。
早いことに対して怒られることはなかったしむしろ長所と捉えられた。「あいつに任せたらとりあえず一番早い、出来は最低ラインだけど」という評価をもらって、店の中で立ち位置も確保できた。
最初の一年とちょっとはそんな感じで忙しい仕事と超厳しい先輩をなんとか凌いで、自分が存在する帯域を確保できた。後の数年で綺麗さを補完して、先輩も引退して、とりあえず自分の配置場所では一番仕事ができるくらいの評価をもらえた。
そう、ストイックな先輩に厳しい指導をされた結果、微妙な人材だった僕でもなんとか居場所を確保できたのだ。
後年、当時のことを振り返って「あの子やばかったよね、正直~(僕)が怒られてるの見て"俺だったらやめてる"って思ってたわ」と、他の先輩から何人も何回も言われた。
中には「あの子のこと流石に恨んでるやろ、正直に言っていいよ」と結構真剣に言う人もいた。
傍から見るとブチ厳しい指導で、人に寄ってはパワハラレベルだったらしい。正直僕もそう思う。
そう思うけれど、よく考えてみれば、例えば「店にとって荷物だ」とか「仕事の邪魔だから来ないで」とか「嫌いだ」とかまでは絶対に言わなかった。
いやそれは当然だろ、と思われるかもしれないけれど、そこまで言っていてもおかしくないくらいの印象が刻まれている。オーラがすごい。
「もっとしっかりして」とか「今は~するときじゃないでしょ」とか、時々理不尽な主張は飛んできたけれど、決して僕の尊厳をそのまま傷つけるような言葉はかけなかった。
僕は結果として先輩を全くと言っていいほど恨んでないし、人間としてちょっとなあと思う部分は多少あったけれど、その部分を上回るほど尊敬する部分が多かったのだ。
「仕事ができなくて店での居場所がない自分」にとって、「人格が多少ヤバいけど仕事が死ぬほどできてなんだかんだ重宝されてるパワーキャラな先輩」は正直すっごく魅力的だった。
だって分かりやすく"強い"し。
背中を見る対象として、あとを追う対象として、僕にとってこれ以上の最適はない。
本当の意味でのパワハラはなかったし、実力がリアルタイムで目に見えるし、そうしながら(仕事上必要であったとはいえ)僕を指導してくれたのである。
本当に本当に、僕も他の先輩も誰もが認めるほど「厳しい」人だったけれど、僕にとって必要な一ピースだった。
理不尽な指示と的確で素早い仕事、前者を批判したいという気持ちと、そのために後者に勝たないといけないという気持ちが、僕の中で上手くバランスしてくれたのだ。
この話は結局、他の先輩が言う「正直恨んでるだろ」に対してのアンサーでしかない。
あくまで"僕は"あの指導が必要だったと思います、という話でしかない。
万人に共通に、厳しい指導が必要かと言われるとそうではないと思う。
僕は第三者から見て「仕事のできない人」だったからそれを改善するために指導が必要で、その指導が上手く僕とマッチしていたのだけれど、
まず「仕事がそこまでできる人にならなくてもいい」場合もあるし、
「過去にパワハラの被害に合ってトラウマの気がある」人に対してそんな酷いことはしないでって思う。
あとただのサボり症の人を怒鳴りつけてもそこまで効果はないと思う。
部活動で鍛えられていたドが付くマゾの鍛え方をする僕に対して、スパルタ教育法が非常にあっていたというだけの話である。
万人に共通するかどうかはわからないけど、スパルタ教育法の個人的に思う利点をいくつかまとめて終わりにしたいと思います。
①:体育会系のドMに利く (そうじゃない効率派で頭の良い人には逆効果の場合もある)
②:指導者が何かしら強みを持っていると、指導そのものにカリスマ性が生まれる
③:「あの人の厳しい指導を耐え抜き強くなった」と対象に思わせることができる
引きこもって音楽なんて作っている僕だけれど、
なんだかんだ昭和的な「努力して能力を勝ち取った」系のステレオタイプな思考に弱いんだなぁ、と思いました。
人間頑張るときは本当に頑張らないといけないと思う。その環境が自分の尊厳や価値観を傷つけないものならば、必死になってしがみついてもいいと思う。
しがみつく対象となる人と出会えてよかったと思う。
スパルタは必要か
過去に少なくとも三度は、誰かに教えてもらって叩き上げられたことがある。
一度目は中学の部活動、
二度目は高校の部活動、
三度目はバイトを始めて一、二年のころ。
幸いにも体罰と呼ばれるものには一度も遭遇していない。
一度目は人を選んで執拗に叱る指導者だった。彼にとって優秀な学生には随分優しくするが、合格ラインに達さない者には尊厳を傷つける言葉を吐くので酷く士気を削がれる。どれだけ毎日欠かさず来ていても。
いくら叩き上げるといっても、相手の姿勢や本質を見ずに叩くだけの指導には何か保身めいたものというか、こちらのことを考えていない態度が見えたので、未だに好きにはなれない。
二度目はとても厳しい先輩だった。練習の時には体が壊れるんじゃないかと思うくらい無茶をさせられるし、それに付いていけないという姿勢を見せるとさらに状況は酷くなるという、団体のボトムを底上げするタイプの指導だった。
三度目もとても厳しい先輩だった。他の先輩や店長に僕が心配されるくらい凄まじい指導だった。一度の指示は滅茶苦茶に多いし、同じ時期に入ったからと言って部活動と両立している僕とは全くシフトの数も違うのに同じ運用をさせられた。
彼ら二人は未だに思い出話に出てくる人達で、「あの人めちゃくちゃだったよな」とか、「あのやり方はどうかと思う」とか、とにかく話題に欠かさない、誰にとっても印象深い人達だった。批判も数多く受け止める人達だった。はっきり言ってすごく酷い目に遭わされたと思っている。
でも彼らのことを僕はむしろ感謝しているし尊敬している。
彼らが何を思って僕をこんなひどい目に遭わせたのかは定かではないけれど、
批判を甘んじて受け入れ、そうやってでも僕を叩き上げようとしてくれなければ、きっと僕は全然成長できずに終わっていたと思うのだ。
ブラック企業だとか、昭和な考えの指導とか、とにかく努力を推して厳しい練習を重ねる思想は古いと批判される昨今だけれど、
少なくとも僕にとってはあの方法が必要だったと今でも思うのだ。
今成長しないと絶対にここにはいられない、とか、なんだかんだこの人ってすごい仕事できるしこの実力を超えないと文句は言えないよな、とか、そういうことを考えると僕はものすごく元気をもらえる。
僕にとって先駆者となる指導者は必要だったと思う。
ほしみる
I SEE STARSをめちゃくちゃ聴いてる
I SEE STARS - New Demons (Live Music Video)
こちらはエレクトロコア界隈で傑作と呼ばれるアルバム"New Demons"のリードトラック
I SEE STARS - Everyone's Safe in the Treehouse (Official Music Video)
そしてこちらは去年出た最新アルバム"Treehouse"から最新のMVです。
ここには貼ってないけどMurder Mittenが傑作中の傑作だと思うので是非聴いてほしい。
メンバー交代の度に曲の方向性が少し変わるバンドなんですが、ボーカルのハイトーンを活かしてエモーショナルに攻めるところは全く変わってないと思います。
4thは攻撃的にメタルコアとEDMを最高の塩梅で混ぜてきた感じ、
5thはミドル以下のテンポでメタルの雰囲気を若干残しつつほぼエレクトロに移行した独自の世界観、って感じです。
4thが至高じゃんって思ってたんですが5thのストリーミング聴いてるうちに考えが変わってきました。ボーカルの持ち味をしっかり意識して大事にしてるバンドだなぁって思います。5thの歌声本当に綺麗。
取り寄せで一か月くらいかかるんですが4thのNew Demonsは購入決定しました。年明けくらいに自分へのクリスマスプレゼントになるはず…